×

連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十二)材木町(その3)妙法寺の芸能人達①

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 中島平和記念公園に建てられた原爆資料陳列館の近くには、原爆以前のカタチを最後まで残した「かさもり小路」があった。

 この小路一円は材木町で、そのかみの新大橋(西平和大橋)を西から渡って黒壁造りの広島産業銀行を右に曲がると、日蓮宗妙法寺の墓地を囲んだ長い壁があった。この境内にあった〝かさもりさん〟は、もっぱら玄人筋の人気を集めていた。

 線香の煙る夕方ともなれば、本堂から響いてくるうちわ太鼓の音とともに、思いがけない麗人の信者を見かけたもので、「かさもり小路」独特の講談調的フン囲気が漂って、玄人筋にはまさに広島城下の一名所とされていた。

 ところがあの八月六日の原爆で、本堂その他の建物は殆(ほと)んど焼けてしまったが、不思議とあの白い長壁はそのまま残された。妙法寺の墓地には、そのかみの信者の墓が列を連ねていた。儒者の駒井白水、心学家の中村徳水、宗箇流の茶道家中村泰心や中村快堂の名前も見られた。

 特に芸能人には、鼓の名手といわれた金春市之丞、落語家としておなじみの桂三之助、それにうかれ節(浪曲)元祖の名人と言われた京山恭安斎、歌舞伎役者の坂東秀調などの墓が見られた。そのかみの芸能ファンには忘れられない人達ばかりである。

 ところで、落語家の桂三之助の経歴については判ってはいないが、歌舞伎役者の板東秀調は、観音村観音藪(広島人は昔から「かんのんやぶ」といわず、「かんやぶ」といい伝えている)の生まれで、京、大阪でも舞台を踏んだ役者といわれた。安政四(1857)年、宮島夏市の大歌舞伎の番付にその名を連ねている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年8月2日中国新聞セレクト掲載)

年別アーカイブ