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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十二)材木町(その3)妙法寺の芸能人達②

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 歌舞伎役者の坂東秀調はのちに、上方から郷里広島に帰って文久元(1861)年から三年間、江波村と安佐郡打越村にあった芝居小屋を中心に、土地のヒイキにまもられて立役として絶対の人気を集めた。晩年は舞台を退いて、天満町で亡くなったのは明治十八年八月十四日で、七十七歳の長寿であったといえば文化六(1809)年の生れである。

 昭和二十五年三月、市川猿之助一座に参加して広島に来た四代目秀調は、「私も墓があることを聞いていまして、広島では有名のお方と知って昭和十七年に法要をしたことがあります。系図にはありませんのでいろいろ調べましたが、坂東秀調というのは四代目坂東三津五郎の俳名で、どうもその弟子さんが広島の秀調さんらしく、変り紋は違いますが正式の紋は私のものと同じです(紋は三つ環に三階菱)」

 「二代目秀調は明治十七年襲名して団菊時代の名女形とうたわれたものですが、広島に秀調という同じ名の人がいてもそのころの交通不便で判らなかったものらしく、その点系図からははずれているようで、まことに昔らしい話です。戦前には大阪にご遺族があるということを聞きましたが、戦後は縁故がないそうです」と話していたが、かんやぶの秀調のことが、一応芝居道では話題になったものである。

 また京山恭安斎の墓は、あの日の放射熱にさらされて、かなりいためつけられている。表面に「元祖」の二文字が横に刻まれているのも珍しく、「京山恭安斎墓」の六字もなかなかに達筆である。右側の石面はほとんどが焦げただれて、わずかに明治の二字が見られるが、残りの文字は判読できない。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年8月9日中国新聞セレクト掲載)

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