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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十二)材木町(その3)妙法寺の芸能人達③

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 妙法寺にある京山恭安斎の墓の台石の正面には、右から京山恭虎、京山恭平、京山斎一、二代目京山恭安斎、右側には太夫元中村茂一、三味線梅の家小徳、左側は明治二十二年三月十四日、世話人玉木山、亀吉、福本(不明)の名前がそれぞれ刻まれて、手水鉢には菊水の紋が現わしてある。

 浮かれぶし(浪花節)の元祖という二文字を自らの墓に刻んでいる恭安斎は(もっともこれは、自分で元祖を名乗っても、その文字を墓にまで刻んだのは一門の弟子たちのはからいである)元来、紀州公の御殿医の息子で、幕末のころ、説教節の流れをくむ祭文語り(さいもんがたり、別の名をちょぼくれともいう)の都京徳、あるいは京徳の師匠都三光の門に入ったという二つの説がある。

 あるとき京徳の紀州興業に参加したが、前読みのものが急病で倒れたために師匠には無断で一席弁じたが、これが師匠の怒りに触れて破門された。それがため大阪に現れて、祭文を流しているところを江戸詰の士分であった兄にみつけられて、あわてて姿を消したという。

 彼の語り口は経文を読むようで、「源平盛衰記」や「難波戦記」のような気品のある読物が得意であった。とくに会話がうまくて「盛衰記」のうちでも牛若丸、弁慶の鞍馬下りの一段は、その節調に乗った彼独得の「流し」がうけて、聴衆の眼前には主従の愛情やそのしぐさを幻のように浮びあがらせたという。

 「元祖」の亡くなった年齢も年月日も、墓そのものが原爆で破損しているためによくわからない。もともと、元祖の墓は紀州の三井寺に大きな自然石で建てられたものであって、これは九代目団十郎が面倒をみたと言い伝えられている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年8月23日中国新聞セレクト掲載)

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