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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十二)材木町(その3)妙法寺の芸能人達④

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島にある「元祖」の墓は、京山恭安斎が広島で亡くなったのち、一門の者が元祖を慕って建てたもののようであるが、三井寺にある墓は、当時の人気者九代目が建てたと言われるあたりには、元祖恭安斎の人気の程がうかがえるようである。

 元祖の挿話には、彼が真影流の達人であったというが、岩国での興行中、徳川方を憎んだ地元の者から道場に呼び出され、試合にかこつけて激しく木刀で打ちのめされた。その後広島で興行中、岩国道場での負傷が原因でついに広島で病死して妙法寺に納められたという。

 恭安斎が師匠都京徳の膝元を飛び出して独立したときに「都を下に見るのは京の山であるから、京山と名乗ってやろう」とこれ以来、京山一派を起し、のちに芸道の元祖調べが行われたとき「うかれぶし」すなわち浪花節の元祖は恭安斎であると、その称号が彼に許されたとのことである。

 広島地方で四十年前から人気をあつめた浪花節の京山若丸師(全国的に“召集令”や“生きる悲哀”でよく知られている人)は長年、この恭安斎の墓を探し求めていたが、自分ではついに探し当てなかったということを筆者に寄せられたが、尾道出身の名人二代目京山小円や、恭為、幸玉、広島明道中学の出身で広島のヒイキには人気のあった京山呑舟など、いずれも元祖の流れをくむ人たちであった。

 そして、これら芸能人達の墓は、それぞれ新しい百メートル道路を横断して新妙法寺に運ばれたが、ゆくりなくも秀調と恭安斎が隣り合わせに納められたのは芸人みょう利と言われるのかもしれない。

 ちょぼくれを広島の東遊廓あたりの大通りで見かけた筆者自身もかなりの骨董モノであるワイと、われながら感慨無量である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年8月30日中国新聞セレクト掲載)

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