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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十三)材木町(その4)伝福寺の俳諧師たち㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 かさもり小路にあった伝福寺(曹洞宗)は、原爆のために本堂その他一切はカイメツして、わずかに石門だけがそのかみの名残りをとどめていた(昭和二十七年七月現在)が、今や伝福寺も移転して昔の名残りはなにも残っていない。

 「知新集」のメモによると、この寺は国泰寺三世十岫宋智の開山と言われ、天明六(1786)年三月、十世達宗が本堂を再建した時、二十一日間にわたっての説法を行い、満願の日に天神町の河原で大施餓鬼を行ったという。施餓鬼に使った棚は百二十四棚もあったと言われるので、なかなかの大がかりなものであったらしい。

 そして、この施餓鬼に使った棚を持ち帰って境内に卒都婆塚をこしらえたが、寬政二(1790)年八月、第十一世仏前の時、金仏観世音菩薩(ぼさつ)の像を安置して、これを卒都婆観世音と称えたという。本堂は長い間に荒れ果てたものを大正元年九月に再建したが、ついに原爆で一切を焼失した。

 この寺で知られているのは、俳諧師多賀庵一党の墓があったことで、一党の墓は山口西果、西園、西郭、修斎一連の儒家よりも一般に知られていたと言う。すなわち、俳諧師多賀庵二世六合、三世玄蛙、四世筵史など、一党の墓がそれである。

 多賀庵二世六合は、家号を茶屋と言い、通称は喜三郎、俳号は六合と言った。長年、西引御堂町に住んで、茶を商ったために前記の通り家号を茶屋と言ったものである。彼は俳句を好んで、小網町(土橋)に草庵を結んだ多賀庵風律(初代)の門に入ったもので、風律の没後、門弟たちから推されて多賀庵二世となった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年9月6日中国新聞セレクト掲載)

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