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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十三)材木町(その4)伝福寺の俳諧師たち㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 曹洞宗伝福寺には、俳諧師多賀庵三代の墓のほかにも、喜多流謡曲の粟屋新三郎の墓がある。

 粟屋は粟谷とも書くが、当主の益二郎師は喜多流職分で、明治二十三年十一月十一日、いまの中國新聞社の付近で生まれた根っからの広島っ子であった。三代にわたって浅野家に能で仕えたもので、初代がこの伝福寺に眠っている粟屋新三郎であった。

 ついでながら、中央の能楽界で五十余年間も活躍された粟谷益二郎師は、昭和三年七月六日の広島放送局開局のとき、初代放送部長内田信夫氏や、演芸番組を担当していた旭爪修一氏たちの肝いりで、郷土への電波に乗ってその第一声を送ったものであった。

 同師は七歳のとき、厳島神社へ能楽の勉強にやられたのが、この道に入ったはじまりで、十一歳の時、饒津の里にあった鶴羽根神社の能舞台での能楽大会に参加して家元喜多六平太師に見込まれて、正式に師事して修行をはじめたと言われたものである。

 なお、JOFK開局の祝賀プロは、第一艦隊軍楽隊の吹奏楽についで、各方面からの祝辞、祝電披露があって、謡曲「高砂」が放送された。謡は前記粟谷益二郎師で、笛は森田光風氏、小鼓は越智茂幸氏、大鼓は故人加藤初太郎氏、太鼓は故人服部昇氏たちであった。

 呉入港中の第一艦隊軍楽隊(隊員二十六名)の放送も画期的なもので、楽長は「軍艦」の作曲者瀬戸口藤吉氏とともに、当時の双へきといわれた藤咲源司氏であったことも忘れられない。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年9月20日中国新聞セレクト掲載)

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