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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十四)材木町(その5)誓願寺界隈(かいわい)①

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 紫雲寺とも光照院とも言われた誓願寺は、もともと藩政時代は京都誓願寺の末寺であった。

 この寺の本尊は阿弥陀如来で、開山の僧恵空が本山にあった天智天皇の御宸筆「誓願寺」の縦二尺八寸(約85センチ)、幅一尺一寸五分(約34センチ)の扁額を本山の貫主教山(恵空の法弟)より授かり、それを広島に捧持したと言われる。時まさに天正十八(1590)年十月であった。

 当時この寺の界隈は一面の湿地帯で、葦だけが生えていたという、いわゆる寒村地帯であったが、開山の恵空上人は自らこの界隈に小舟を乗り入れ、間もなく材木などを打ち込んで地ならしをやったというが、湿地帯を固めるという工事は、なかなかの大仕事であったらしい。(材木を打ち込んで土地を固めたがために、この界隈を材木町といってもよいが、町名の起りは昔から材木商が多かったために材木町といわれ、隣りの木挽町とともに広島としては珍しいコンビ町であった)  開山の恵空上人は、この湿地帯にかなりの材木を打ち込んで地固めをしたために、彼自身はなかなかの土木工事家であったらしい。

 そして、本来の僧にたちかえった上人は、この界隈のあけくれが紫色の雲につつまれた光景を見て、「紫雲山」という山号を思いついたものらしい。そして院号のなかったものを享保年間に壇家辻肥前の法名光照院を山号の下につけて「紫雲山光照院誓願寺」と言うようになったという。

 旧藩時代に幕府の御巡見衆などが広島に泊るときには、この寺が避難所に予定されたという。というのは御巡見衆が白神組一丁目の御客室に泊ったために、万一の場合には誓願寺がその避難所にされていたのである。また、信州善光寺如来の巡歴のときには、必ずこの寺が定宿として当てられた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年9月27日中国新聞セレクト掲載)

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