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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十四)材木町(その5)誓願寺界隈(かいわい)②

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 誓願寺の境内には、開山の恵空が慶長十(1605)年に勧請したといわれる厳島大明神の社があった。

 社は三間半(約6・3メートル)四方のもので、本堂へはかなりの高さの廊下があって、隣には金比羅の社があり、はるかの建物には経蔵もあった。この「厳島大明神」の例祭をうつしたものが「厳島図絵」巻の五のうちに組み入れられているが、そのかみの誓願寺をしのぶには格好の記録である。

 すなわち、紫雲山誓願寺のページには、六月十七日夜の宮島さんの管絃祭が描かれている。そして本文には「いつくしまの神船、地の御前に渡りたまふ同じ時に、当時境内に祭れる明神社においても、また管絃あり。参詣人も多く、或は角力をし、或は踊をして浮かれ遊びつつ、夜の明けなんとするをおぼえざるも、みな神慮を慰むるためなり」と書いてあるが、景昌が描いた当夜の風景は原爆前に見かけたままの姿であったことを思い出す。

 本堂の屋根が高いのもこの寺の特色であったが、玄関前の広場には踊りの輪が描かれて、踊り子が手に白扇を持っているあたりは、筆者たちが子供時代に見かけた盆踊り風景と少しも変わらないものであった。

 踊りの輪の近くに見られる鐘楼も、原爆前そのままの建物であった。池の近くにあった三間(約5・5メートル)に三尺(約0・9メートル)の地蔵堂も思い出される。本堂前の石畳を右にながめるあたりには、子供中心の相撲の輪がみられ、その後方には揚弓場二ヵ所がみられるのもこの誓願寺風景の一つであった。

 石畳でかこまれた池にはたくさんの亀が浮いていて、池の上に架けられた長さ四間(約7・3メートル)、幅五尺(約1・5メートル)の石橋も忘れられない。また高さ八尺(約2・4メートル)の宮島型鳥居も厳島大明神の特色であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年10月4日中国新聞セレクト掲載)

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