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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十四)材木町(その5)誓願寺界隈(かいわい)③

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 とくに誓願寺で忘れられないのは表大門である。高さ七間(約12・7メートル)、幅五間(約9メートル)のこの大門は、元文年間中に、十二世厲空のときに再建されたものと言われるが、中国路でもこれ以上の大門は見られなかった。

 門の特色と言われるものは千鳥唐破風造りで、正面にあった「紫雲山」と書かれた扁額は縦七尺(約2・1メートル)、横三尺(約0・9メートル)の立派なもので、江戸九皐の書と言われた。さすがに立派なこの大門は、当時広島でも自慢の名物であった。

 そして寺の前にあった安楽院のあたりに高ちょうちんを掲げた武士の列がつづいているのも珍しく、同じ通りには町内の太鼓をたたいて唐獅子が繰り出されているのも、面白い誓願寺界隈の風景であった。はるかに木挽町の西福院が描かれているのも、珍しい思い出の風景である。

 以上、誓願寺のことを書いたので「ある」が、実はこれらの風景はいずれもが「あった」と書き改めなくてはなるまい。現在の百メートル道路には、なんら「誓願寺」の片鱗(へんりん)や面影が見られないのは寂しい。旧浅野藩の家老辻将曹や辻健介の墓も、この寺に見られたものであった。

 また安楽院は寛政年間、細工町の世並屋市郎左衛門が胎蔵大日尊、十一面観音、軍茶利明王の三像や歓喜天尊本地仏を寄付したことでよく知られている。また慶蔵院にある鎮守社に楠氏三世の霊が祀ってあったのは、市民たちからよく知られたものである。

 浄円寺は真宗西本願寺の直系で、広島西派真宗のうち、六ヵ寺から十ヵ寺の触頭といわれたもので、狩野派の画家橋本峻嶂の墓があったことで知られていた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年10月11月中国新聞セレクト掲載)

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