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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十四)材木町(その5)誓願寺界隈(かいわい)④

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 浄円寺に墓があった画家橋本峻嶂は、少年時代から山野峻峰の弟子となって狩野派の絵を学んだ。彼の得意は墨絵で、「躍鯉群雀」は彼の傑作といわれた。峻嶂は明治二十五年十月二十五日、六十四歳で亡くなった。

 誓願寺の南側の小路を「天狗小路」といったが、この小路一円は中島本町にあった天狗屋の借家が軒を並べたところである。

 この天狗屋は、堀川町の油屋中忠とともに昔風の化粧品を売った店で、小さな猪口に塗られた口紅製造元として広島旧人、とくにご婦人たちには思い出の店であった。

 かつての広島の女性たちは、天狗屋製猪口の口紅には一応はご厄介になったもので、ルージュをいきなりかじりつくように唇に塗りつけるのではなく、左の手に軽く小さな猪口を置いて、右の手の小指でこの猪口の中の紅を塗った風景はそのかみの明治調であった。

 伝え聞くところによると、そのかみの義理人情の世界で、広島にわらじを脱いだ若者が、相手方に追われてこの天狗小路に逃げ込み、危く助かったという話を聞いたことがある。今やその天狗小路も百メートル道路のうちに吸い込まれている。

 なお、誓願寺は広島市の教育には大きな貢献をした。すなわち、明治二十四年三月には袋町尋常小学校の分教場を誓願寺に置いたのを機会に、この分教場は明治三十一年三月三十一日まで市中心部の児童に馴染まれたものである。それが初等教育の大役を果たしている。

 そして翌三十二年四月一日からは、県立広島商業学校の前身、市商業学校がこの誓願寺に仮設されたもので、当時の創立者には熊平源蔵氏の名前が見られる。明治四十四年十月には、同じ誓願寺の境内に「無得幼稚園」が創立されたことも忘れられない。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年10月18日中国新聞セレクト掲載)

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