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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十五)材木町(その6)弓取りの名人「広錦」㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島出身の力士といえば、まず横綱「安芸の海」のことを書かなくてはならないが、それは宇品町の巻にゆずるとして、材木町に育った渋谷武四郎君、すなわち「広錦」のことを書くことにしよう。

 広錦は、そのかみの広島陸上競技界で活躍した渋谷朋一君の弟で、筆者が彼の土俵を見たのは昭和三年の十月であった。

 当時の大日本相撲協会が地方本場所を打ったのは、大阪に次いで広島であった。たしかに晴天十二日間の広島本場所は、ヒロシマにいろいろな記録を残した。

 先ず、年寄先代出羽の海梶之助氏が開局早々の広島放送局に現れて、「力士の生活」というような題で講演放送をやった。そのあとが初日の宵触れ放送で、ちょうど漫談家の西村楽天氏が放送に来ていて、相撲放送というものが、いかに難しいものであるかということをいろいろと説明してくれた。

 同じ席にいた出羽の海親方は「東京の松内さんの放送は天下一品です」と言うような話をして帰っていった。筆者は故内田放送部長から「とにかく松内アナが来るまで、相撲放送をやってくれ」と言われ、偶然に相撲放送をやったことがある。無我夢中で初日、二日目と二日間をしゃべりまくったが、その介添え役は木村庄三郎氏(後の式守伊之助氏)であった。

 かくて晴天十二日間は大入り満員の盛況で、協会の広島本場所結びの一番はあれほど広島ファンの絶対の人気を集めた横綱常の花(後の出羽の海親方)が、横綱宮城山に一敗地にまみれるという大番狂わせがあった。常の花ビイキがあっけに取られたうちに土俵に上ったのは、みどり色の化粧回しをつけた広錦であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年10月25日中国新聞セレクト掲載)

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