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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十五)材木町(その6)弓取りの名人「広錦」㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 みどり色の化粧回しをつけた広錦が土俵中央でブンブンと振り回す弓は、まさに曲技以上の至芸であった。紅潮した顔をほころばせた広錦のポーズは、まさに錦絵ソックリ、筆者には今でもその時の印象がハッキリと残っている。

 あれから二十五年、その後の広錦の消息を知るために、広島にいる同君の細君を訪ねた。すると彼女は、去る昭和二十年七月の初めに、広錦が現地応召を受けたために大連で別れたという。そして広錦の乗った列車は当時の満州国に向かったという話で、その後の消息については一切不明という話をしてもらった。

 そして、広錦の弓取りは福柳全盛時代(福柳といえば当地の旧券寿美三さんの実兄で、広島ではヒイキの多い人気力士であったが、ふぐの中毒で死亡した。寿美三さんは原爆で亡くなった)から始めたもので、弓取りの名手といわれた広錦には、各方面から彼の妙技を称えた表彰状やメダルが贈られていたという話も聞いた。

 かつての親友笠置山関(年寄秀の山勝一氏)に広錦のことを照会すると、あらまし次のような回答を寄せられた。

 「広錦君は小生の先輩であり、無二の友人でありました。小生が角道に入門した昭和三年には三段目くらいかも判りませんが、その時すでに福柳関は亡くなられていました。同君は幕下二段目で引退するまで、すなわち昭和初期から十五年頃まで(引退場所は忘れました)弓取りの名人でした。昭和二十八年八月の現在でも相撲協会で本場所中に使用している弓取りの化粧回しは、広錦君の妙技に、溜会(たまり会)より寄贈されたものでありました」

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年11月1日中国新聞セレクト掲載)

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