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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十五)材木町(その6)弓取りの名人「広錦」㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 材木町に育った広錦について、秀の山勝一氏から筆者宛に寄せられた手紙はさらに続いた。

 「引退断髪式は広島の殿様、長勲侯の後継者長武氏のお屋敷で、たしか柳沢保承様もご同席されたようにうかがいます。当時の写真は惜しいことに戦災で焼きましたが、先ごろゆくりなくも柳沢さまの奈良県郡山町にあるお屋敷で、その写真を見たように思います。おそらく幕下で引退するのに、郷土の殿様からその屋敷で断髪式をしていただいたのは広錦君が初めてでしょう」

 「もちろん、これには第一無尽社長の故稲井氏の力添えがあったからです。広錦君の性、正しきを愛し、無口ですがユーモラスな言句も多く、清潔を好みました。酒は盃に二、三杯でしたが、交際上での宴会は好きで小生とは常に同道して行きました。その他については、あまりにも身近にいたため思い出せません。小生の家人とは、兄妹、家族のようにしていました。写真もたくさんありましたが、惜しいことに戦災で焼いてしまいました」

 これが手紙のあらましであるが、その後、重ねて「阿里山については、当時の理事長常の花現出羽海親方その他にも聞きましたが、野球選手であったと聞いています。力士としてはおとなしい方であったという以外には、何ら話がございませんでした」という葉書(はがき)も貰(もら)った。

 終戦一カ月前に応召した広錦のその後については、今もって何ら消息がないようであるが、最近引き揚げ者が相次いでいる折柄、渋谷武四郎君の復員を心から祈ってやまない。終わりに本文への資料を送っていただいた秀の山勝一氏の御好意に感謝して「材木町」の巻を終わる。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年11月8日中国新聞セレクト掲載)

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