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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十六)木挽町 ひょうたん小路㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 木挽町は、知新集によると「昔より木挽職の者あまた居住す」と書かれており、広島市史によると「昔時、鋸匠多く住せしに因りて名づく。寛永の古図には小引新町と記せるも、承応の地図には木引町と記せり、明治十五年一月、天神町南組の地二段八畝五歩余を当町に属せり」とも書かれている。

 材木町誓願寺の横小路は天狗小路であったが、この小路に添うた西側には「ひょうたん小路」があった。この小路は東本川土手に抜ける細い曲った小路で、京橋の西土手にあった徳利小路(ラジオ中国の新局舎が建築中である)同様、そのかみの広島小路名番付では異彩を放った小路であった。

 この狭い町内には三つの寺院があって、原爆後よく知られているのは真言宗の持明院である。この寺には「教え子を水槽に入れて自分はおういとなりて逝きし師のあり万歳の声をいまわに倒れてゆきし清き乙女の、赤き血の色ゆきゆきてかえらぬ人の面影をしのびて夜半の木枯をきく」という広島市女原爆慰霊碑が建てられている。

 この寺は別名を嶺松山歓喜寺とも言われたもので、本尊は弥勒菩薩、文禄二(1593)年開山秀栄が建立し、別名を「松の坊」と言われた。また原爆の日まで境内にあった聖天堂は、天明年間に十二世の即浄が造営したものと言われた。

 また、福寿院は持明院とともに大覚派の寺で、天正、文禄の頃、開山の増長師は備前の児島からこの土地に移り住んでこの寺を建てたものであるが、初めは福寿坊と呼んだと言う。

 院内にあった建物は、七世、八世、十世などの再建になったものと言われ、本尊は十一面観音菩薩で、客殿に安置された本尊の延明地蔵菩薩は運慶の作。開山の増長師が児島から護持してきたものといわれて、昔から火難除けの霊験があらたかと言い伝えられたものであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年11月15日中国新聞セレクト掲載)

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