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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十六)木挽町 ひょうたん小路㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 西福院は材木町に並んだ寺で、長栄山清照寺ともいわれ、僧隆誉が広島入りをして文禄二(1593)年にこの寺を開いた。本尊の観世音菩薩像は唐から伝えられたもので、元禄十二(1699)年明星院の僧弁龍がものした「芸州広島長栄山清照寺西福院並本尊由来」で伝えられている。

 また、この寺が一般によく知られているのは、粟島さんのことである。寛永八(1631)年二月一日に書かれた「芸陽広陵中島西福院鎮守粟島大明神略縁起」にも詳しく粟島さんのことが書いてあるが、その由来については次のように言い伝えられている。

 すなわち、浅野但馬守長晟(ながあきら)がまだ紀州にいたころ、徳川家から来た長晟の夫人は粟島大明神を信仰して亡くなったが、元和五(1619)年但馬守が広島入国後、夫人の冥福を祈るために随臣杉田新兵衛を広島に呼びよせて、寺の境内に粟島大明神を勧請したといわれる。

 縁起の一節には、「粟島大明神は紀州名草郡蚊田の地に鎮座まします。その由来をみるに、少彦名命淡島に至り給ひ粟茎にのぼり、ハチワレ渡りて常世郷に至り給へるとなん、是より粟島とは申奉るなり(以下略)」とあって、原爆以前の旧広島人にはなじみの粟島さんであった。

 また、この寺の「紺紙金泥宝筐印陀羅尼経一巻」は、釈道喜の筆と言われて康保二(965)年に書かれたもの。明治四十三年四月二十日付で国宝に指定された。もっとも、原爆後の話は知らない。当時としては広島市内にあった唯一の国宝であった。

 なお、この寺には、武田光和三代の孫である武田和千代丸の墓があったが、石標には文禄三(1594)年八月六日卒、享年三十六と刻まれている。また元和二(1616)年七月二十一日に入寂した「開基隆誉上人の墓」もあった。そのかみに「小引新町」「木引町」と書かれた木挽町は、今や百メートル道路の南側にわずかに昔の名残りを留めている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年11月22日中国新聞セレクト掲載)

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