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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十七)元柳町 二つの呉服店の話(その1)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 昔、この界隈(かいわい)は柳の木がたくさんあったがために柳町と言われたものが、後に東柳町が出来たために、本家はこちらとばかりに「元」の字を加えて「元柳町」と言ったものである。

 元柳町は材木町や木挽町につながる町で、西部方面に渡る橋には新大橋があった。すなわち新大橋のあたりは、文化元(1804)年から「本川渡」と言われ、西地方町の柴屋武助が渡船場を設けたが、明治六年の八月に待望の新大橋が架けられた。

 大正末期の話であるが、この新大橋界隈にはいろいろな店があった。筆者の印象に残っているのは、橋を東に渡った突き当たりにあった「あわや加藤呉服店」のことである。

 当時、この加藤呉服店の店先には、ピカピカと黒びかりに光ったスタンド・ピアノがあって、ときどきこの店の前を通ると若い男たちがケン盤を叩いていた。ピアノというものを自宅に、それも店先に据えている家と言えばこの加藤呉服店だけで、当時としてはなかなかの評判であった。

 そのころ、材木町の浄宝寺にはアメリカから帰朝したスワ冷海師が、陸軍軍楽隊の父とたたえられた永井建子氏(安佐郡出身)を招いて浄宝仏教青年音楽会を主宰していたが、この青年音楽会では羽田別荘歌劇団にいた音楽教師小田一雄氏(上野出身)や、秋本昇君(トウダンスの名手浪花君子の夫君)たちを招いて、若い会員たちにピアノを教えていた。

 一方では、当時新川場町に住んでいた高等師範学校の教授長橋熊次郎氏の夫人八重子さんが、広島英和女学校(広島女学院の前身)や自宅でピアノを教えておられたくらいで、広島としては自宅にピアノを備えつけていたのは珍しい時代であった。東部では、筆者の先隣に住んでいた中野春子さん―広島女学院の音楽教師から新劇界にはいった杉村春子さんの家にあったぐらいのものであった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年11月29日中国新聞セレクト掲載)

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