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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十七)元柳町 二つの呉服店の話(その1)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島でピアノを備え付けていた家が珍しかった時代に、堀川町勧商場の入り口あたりにあったカフェーではピアノを据えつけていたが、これらは白エプロンの女給さんたちが、もっぱらヒマつぶしに流行歌をひいていたというピアノであった。

 余談であるが、ピアノといえば当時八丁堀の帝国館には舞台の袖にスタンド・ピアノを据えつけて、弁士の里見凌洋が活動写真の合い間に端唄や流行歌をピアノだけで聞かせたもので、間もなくヴァイオリンのうまかった弁士桜井ろ畔がこの舞台に現れて、長唄「勧進帳」や「越後獅子」を合奏して、当時の広島人を喜ばせたものである。

 なお里見凌洋は、帝国館の舞台に立つ前には「すこぶる非常大博士」といわれた駒田好洋の楽団でピアノを担当していた。

 話が本筋に入るが、加藤呉服店がピアノを備え付けたのは、浄宝寺のピアノや帝国館でのピアノに刺激されたものと思われるが、後に「あわや加藤呉服店」は昭和十年頃であったか、八丁堀の福屋百貨店前のあたりに店を移した。ところが間もなく火災にあって店を閉めて、県北の三次に一家は移住したと聞いている。

 後日物語になるが、昭和六年であったか、広島放送局の第二期アナウンサーに四名が採用された。その四名のうちには、高知市出身の原二郎君がいた。同君は戦争中、マニラ放送局に派遣されて、AKから派遣された米良アナウンサー(同君はAKの拳闘放送の草分けであった)とともに、バギオの山中で戦死したが、原君と同期生に荒神町出身の田中清芽君がいた。

 広陵中学から高等師範を卒業したアナウンサーであった田中君は、高等師範の長橋熊次郎教授にかわいがられた音楽青年で、学校の丁未音楽管弦楽団では第一ヴァイオリンを担当していた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年12月6日中国新聞セレクト掲載)

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