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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十七)元柳町 二つの呉服店の話(その1)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 荒神町出身の田中君はFK入局五年後、アナウンサーをやめて音楽関係のプロを担当した。第一線をやめての心境を当時松江にいた筆者に細々と書き寄せたものである。

 もともと洋楽に関心を持っていた田中君は、自ら音楽番組の編成の役を買って、アナウンサーをやめた。当時の広島音楽界では「カンちゃん、カンちゃん」と慕われた(カンちゃんのニックネームの由来については、別の機会にゆずる)。

 このカンちゃんが、当時三次高等女学校の音楽教師であった女性をFKに招いて、歌謡曲(あるいは国民歌謡であったかも知れぬ)を放送させた。もちろん歌謡曲ばかりではなく、本格的なモノをもプロに織り込んで放送した。これは学校の関係もあって当時のうるさ型に揚げ足を取られるのをはばかって、カンちゃんが適当な名前をこしらえて放送した。

 このプロは不思議と各方面からうけて、大阪のコロムビア会社から早速照会して来て、女性は三次高等女学校をやめ、コロムビア専属の歌手になった。それが二葉あき子さんである。

 二葉の姓は、広島時代に住んでいた饒津の里の二葉山に因(ちな)んでつけたものである。二葉あき子さんは県女時代、長橋八重子先生の薫陶をうけて東京音楽学校の師範科に入学し、卒業後を三次の女学校に奉職したものであった。

 今の広島宝塚劇場が新天地劇場として開場間もないころ、藤山一郎とともに広島公演をした時、彼女からそのかみの長橋先生や田中君たちの思い出話を聞かせてもらった。

 以上、元柳町にあったあわや呉服店のピアノの話から二葉あき子さんのデビューまでを書いたワケであるが、今一つの呉服店の話をつづるとしよう。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年12月13日中国新聞セレクト掲載)

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