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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十八)元柳町 二つの呉服店の話(その2)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 原爆後、イサム・ノグチがものしたヨシコ橋(西平和大橋)については、いろいろな話題がある。

 例えば、西大橋はあきらかに和船を表象したもので、これは人生の旅を表したものとも言われた。また面白いのは、この橋を照らしている電燈柱が大きなビンが逆さに大地に突きささっているように見えることである。この電柱はハーレ(毛)を意味し、二十五万の惨死者たちの怒髪を表したものとも言われて、その後の広島での話題となっているものである。

 ところで、そのかみの新大橋を偲(しの)ぶにはなんのカタチも残っていないのだが、長年広島に住んでいたSさんの尾道の家に、新大橋風景の油絵が残されている。

 この絵は四号大のモノで、新大橋の西詰風景を描いたものである。橋桁も大時代なもので、一本の電燈柱には灯が点ぜられて、それに一本の大柳が見られる。大正中期のスケッチらしく、だれの作品とは判っていないが、そのかみのヒロシマをしのぶには格好のキャンバスである。

 あわや加藤呉服店は、このキャンバスの中にあった橋の東詰にあったものであるが、これから書くもう一つの呉服店の話は、この町内にあった店ではなく、あわやとは音楽という名で結ばれた平田屋町の山脇呉服店の話である。

 山脇呉服店は、崇徳教社前の通りを本通りにつき当った店である。跡取り息子の山脇さん(名前は忘れた)はなかなかの音楽好きで、親父さんが亡くなってからはいわゆる音楽喫茶店コロナを開業して、専らクラシック音楽のレコードをかけて若い広島人を喜ばせた。

 筆者が久しぶりに外地から帰って広島で働けるようになった昭和十六年の春には、山脇さんは音楽マネジャーとして相当の顔であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2020年12月20日中国新聞セレクト掲載)

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