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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十八)元柳町 二つの呉服店の話(その2)㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 山脇呉服店の跡取り息子の山脇憲夫さんが面倒をみた中央交響楽団(東京フィルハーモニー)の演奏会は、FKが新交響楽団を招待して以来の画期的な音楽会であった。これを機会に山脇さんの顔も中央音楽界に知られて、翌昭和十七年にも同じ中央交響楽団を広島に招聘(しょうへい)して二度目の演奏会を開いた。このときのタクトはローゼンシュトック氏と近衛秀麿氏であった。

 山脇さんは、昭和十六年の暮れには、松本五重奏楽団を招いて国泰寺町の県教育会館で音楽会を開いているが、目の不自由だった山脇さんが開会前の舞台に立って国民儀礼を行った姿が思い出される。

 その後の山脇さんは平田屋町の店を閉めて、流川町筋でレコード店を開いたが、昭和十九年には家屋疎開で同じ流川町筋の別の場所に移転した。

 ところが八月六日の朝、山脇さんの妻君は、近所にあったまんじゅう屋のおばさんと勤労奉仕に出かけた直後、ピカドンで流川の自宅近くで爆死した。また、山脇さんは自宅で原爆を浴び、建物疎開後の広場まで逃れたところを近所の知人に手をひかれて比治山まで逃げのびたというが、恐らくは比治山で亡くなったものと言われている。

 広島の音楽ファンになじまれた山脇さんがかくも惨めな死を遂げたとは、世界平和記念聖堂の鐘の音を聞くたびに、比治山の一角で倒れた山脇さんになにか呼びかけてやりたい気がしてならない。

 なお、新交響楽団が広島に最初に来た時には、ビクター専属勝太郎の「島の娘」が放送され、花柳寿美が遠山静雄氏の照明で「八百屋お七」を踊ったものである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年1月10日中国新聞セレクト掲載)

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