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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十九)天神町(その1)天満宮と天神サンの話①

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 天神町はそのかみの町名は「船町」と言われた。当時この界隈(かいわい)は川舟や海船が川岸に群がり集まって、旅客や貨物の出入りが盛んであった。

 毛利氏が広島を開いたのち、当時吉田にあった天神社をこの土地に移して、この界隈を「天神町」と呼んだものであるが、寛永元(1624)年の地図には、上船町、下船町と書かれている。そして寛永十七年の文書には天神町の名が見られるというから、船町が天神町になったのは寛永年間のことであるらしい。

 ところで天満宮の話であるが、毛利氏が広島を開いた当時には、社領として三百余石をもらって天神院と言われた。ところが福島氏の時代には、どうしたワケでか社領を没収された。それを元和五(1619)年、浅野氏が紀州から広島入りをした時には、御座船を天神町の岸につないだ。そして新藩主は上陸して、天神院で休憩して天満宮に参拝したという。

 藩主は上陸第一歩を記念して、元和七(1621)年正月、藩主自身が連歌百首を社頭に納めた。寛永八(1631)年には社殿が再建されて、藩主長晟が自ら参拝して銀一枚を奉納したのを機会に、歴代の藩主は正月、五月、九月には必ず代参を派遣した。

 その後ウヨ曲折はあったが、文化九(1812)年十一月に本殿が出来あがって、この建物は原爆の日まで無キズのままであった。旧藩時代には満松院の住職が代々この天満宮に奉仕したが、明治二年八月、神仏を一緒に祀ることが許されなくなって、満松院十一世俊戒は還俗してそのまま天神に奉仕したが、明治五年十月には空鞘神社の摂社となった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年1月17日中国新聞セレクト掲載)

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