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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十九)天神町(その1)天満宮と天神サンの話②

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治三十三年当時の天満宮の社掌坂本岩根氏は、崇敬者総代の山本圓兵衛氏、粟勝一郎氏、中村久吉氏らとともに荒れ果てた本殿を再興し、三年後の明治三十六年三月二十二日より六日間、菅公一千年祭が盛大に行われたことは、今日でも語り草になっている。

 この天満宮も原爆のために全滅して、焼け跡には唐獅子の石が倒れて土に埋もれていた。入り口の大石柱には「明治四十年一月建之、広島市天満町寄付者田中喜四郎、妻田中イト子」と刻まれてあり、境内の一角に建てられた自然石には「菅公一千年祭記念碑、明治三十六年三月二十三日建之、山口中将」とあったのも、今や懐かしい思い出である。

 なお、天満宮の神官坂本岩根氏の後継者である坂本峰三郎氏は、広島中学時代から「天神サン」のニックネームで、中学生仲間でも有名であった。というのは、文字どおり天神髭(ひげ)をのばした坂本さんは広島中学での名物男で、剣道の達人でもあり、野球の応援団長でもあった。

 剣道の達人といえば、その天神サンの好敵手といわれた選手に、明道中学の小林という男がいた。同君は天神サン同様、シナイの達人で、身長は五尺(約151センチ)にも足りない小男であったが、いつも試合中跳び上がって相手方の面を取ったという達人で、今もって昔語りに出てくる選手であった。

 また、天神サンとは違うが、市内のある神主さんにシナイの名人がいた。この人は当時五十歳を出ていたが、なかなかの元気者で二刀流の達人であった。しばしば武道大会で見かけた人で、この人も小林選手と同様、小粒ながら跳び上がって相手の面を襲った。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年1月24日中国新聞セレクト掲載)

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