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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十九)天神町(その1)天満宮と天神サンの話③

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島中学と明道中学の定期野球戦の話は有名で、今でも語り草となっているのは、明道中学に九州から転校して来た学生があった。この学生は小倉のはかまの中に徳利をブラさげて、太い桜のステッキを持って、野球試合を応援したという。

 そしてステッキにはいつもコンブをぬらして巻きつけていて、いざケンカという時には、このぬれたコンブをはずして渡り合ったという。この学生は前述のように九州から転校して来た男で、後に明道中学校の土手にあった「追分松」の近くで大乱闘があった際、同じ頃に転校して来た学生に殺されたという話が言い伝えられている。

 この事件は今もって語り草になっているが、学校に転校してきた九州派と中国地方出身者との間に、てんでにエモノをブチ込んでの大乱闘が行われて、警察では全員非常招集をやったという騒ぎであった。

 明道中学はこの事件数年後には廃校の運命をたどった。明治二十四年九月の創立以来、袋町、小町時代から田中町に移り、さらに新川場町時代を経て明治三十三年には御幸橋の北側にあった南竹屋新開に敷地一万二千坪(約3万9669平方メートル)の学校を誇ったもので、当時国泰寺町の公立学校広島中学に対して私立学校の明道中学はともに広島の名物であった。

 筆者の子供心の記憶には、明道中学の運動会といえばなかなかに大掛かりで、高い網の壁を越す競争などには、数人の怪我(けが)人が出たという激しいレースが繰り返された。広島の財界各方面には多数の明道中学出身者が活躍している。この学校が閉鎖されたのは大正十四年四月で、校長であった嶋末元氏も同じ年の十二月十七日に広島で逝去された。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年1月31日中国新聞セレクト掲載)

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