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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (三十九)天神町(その1)天満宮と天神サンの話④

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明道中学の校長であった嶋末元氏の胸像は、卒業生一同で比治山の一角に建てられたが、ポツンとあった校長の銅像は心なしか寂しそうな表情に見えた。

 明道中学と言えば、広島県商品陳列館(原爆ドーム)の中にあった広島県美術協会の創立者の一人であった長尾潤堂(富太郎)氏も、この中学の出身であった。学生時代には安佐郡古市の自宅から、毎日アメリカの親セキから贈られてきた自転車をとばして明道中学に通学して、専ら話題となった中学生でもあった。

 長尾氏は学校卒業後の明治三十年ごろ、鍛冶屋町の親セキであった宿屋の主人とともに米国から活動写真一切の道具を輸入して、中島本町の大黒座で活動写真というモノを公開したことがあった。もちろん活弁のなかった時代で、「月の世界」などという漫画写真を上映したという。この広島での活動写真の公開は、大阪、京都よりも一足早かったといい伝えられている。

 長尾潤堂氏は、後に西魚屋町のある酒屋に同居して日本画に凝り、専ら「紅梅」を得意として描いていた。広島県美術協会の運営については、峯松真三郎氏を助けて働き、広島美術界のパトロンを自認していた。

 話は再び天神サンこと坂本峯三郎氏のことになるが、同氏は広島中学から神宮皇学館を卒業し、天神町の天満宮に帰り、のちに県立広島商業の先生となって、漢文を担当していた。同氏が紺の刺子のけい古着をつけ、朱胴を当てた剣道着は、近藤イサミの再来かと思われるばかりの立派さであった。松の根ッ子のようなたくましい腕っ節で、筆者たちは先生の一撃には恐れをなしたものである。

 「天神サン」の愛称で、そのかみの広島人によく知られた先生は、益々健在と聞く。中学時代東寺町の某寺から詫び証文を貰(もら)ったという話のいきさつを、本文の結びとしたいが、残念ながら紙数がつきたので、割愛させて貰う。天神サンの健康を祈るや切。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年2月7日中国新聞セレクト掲載)

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