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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十)天神町(その2)吉岡屋勘兵衛の話㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 そのかみの広島で行われた歌舞伎芝居のくだりをまとめてみたい。天神町で木材業を営んでいた吉岡屋勘兵衛は、広島最初の劇場主であった。

 彼は江波村が埋立てられたとき、そこに芝居の定小屋を建てた。これが広島最初の芝居小屋であった。劇場は座元の中屋元助に因(ちな)んで、通称「中小屋」と言われた。場所は大体、旧射的場のあたりであった。

 なお江波が埋立てられた時の話であるが、この「埋立」は「砂持(すなもち)」ともいわれ、本通りの長崎屋に残っている「砂持番付」には、各町内の担当割当量がそれぞれ書いてあった。この番付は広島史を飾るには貴重な資料となっている。

 この砂持は各町内にそれぞれ割り当てられたところに、川砂を持ち運んで湿地を普通の土地に盛りあげたもので、いうならば戦時中に使われた言葉の勤労奉仕であった。その埋立地に建てられた芝居小屋が前述の中小屋であったが、座主の吉岡屋勘兵衛は広島としては忘れてならない最初の人であった。

 芝居ついでに、そのかみの広島話を綴(つづ)ってみると、万延文久年間までは広島で、芝居や浄瑠璃などの興行物はいっさい許されなくて、ただ厳島すなわち宮島だけで芝居興行がみられたという。このことは広島人の風儀が悪くなるのを心配したばかりではなく、他には次のようなワケがあた。

 当時宮島には大富くじを設けていたが、そればかりでは他国の人たちが集って来ないので、人集めの方便として、一方では藩の財政を助けるために、ことさらに芝居場が設けられたのであった。島の芝居場は、今の大元公園のあたりに畳屋町にあった寿座ぐらいの小屋が建てられてあったと言う。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年2月14日中国新聞セレクト掲載)

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