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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十)天神町(その2)吉岡屋勘兵衛の話㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島藩内の芝居興行は広島城下ではほとんど許されず、宮島だけであった。東本町に建てられた小屋は明治二十年ごろまで建てられたままであったが、間もなく解体されたという。

 そのころの興行は請元としては松中屋源吉、その他宮島の地元人たちが代って請元を勤めたが、実際には宮島奉行が富くじの利益で運営をやったという、いわゆる官営芝居であった。

 この芝居はほとんど年中絶え間なく興行されたともいわれているが、実際は三月、六月、九月の宮島市にそれぞれ芝居が開演されたもので、大体は昼夜二回の興行であった。昼は正午から夕刻まで四幕ぐらいで、夜は七時ごろから暁方までの興行であった。そして観覧料は、仲茶屋への祝儀、番付役割から弁当代を含めて大体一分(徳川時代の銀貨幣の一つで一両の四分の一)であった。

 筆者の調べた宮島芝居の資料によると、宮島歌舞伎は大体文政元(1818)年から明治初年までの五十年間に江戸、京都、大阪の役者が乗り込んでいるが、今でも古老の口に伝えられているのは市川海老蔵(七代目団十郎)の三度の宮島来演がある。

 話はもとにかえるが、天神町の材木商吉岡屋勘兵衛が江波村に建てた最初の芝居場は中小屋であった。小屋が建てられたのは文久元(1861)年三月で、舞台開きはその月の四日であった。

 舞台開きの興行には中国千両といわれた立役坂東秀調は広島カンヤブの出身で、その他の役者には立役嵐橘太郎、若女形の藤岡大吉、藤川福松など四十人あまりの一座で、これが広島で最初の歌舞伎であった。お目見得の芸題は「式三番叟」前「時今桔梗の旗上」切「夕霧伊左衛門」であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年2月21日中国新聞セレクト掲載)

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