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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十)天神町(その2)吉岡屋勘兵衛の話㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 天神町の吉岡屋勘兵衛が建てた芝居場のお目見得の配役は、次の通りであった。

 光秀、伊左衛門(坂東秀調)重次郎、夕霧(中村梅三郎)小田春永、喜右衛門(市川小〓)みさほ(藤岡大吉)初菊(藤川福松)園菊(坂東亀之亟)兼冬(尾上多津蔵)森蘭丸(嵐福太郎)母さつき(坂東小三郎)丈介(浅尾政吉)久吉(中村芝十郎)弾正、加藤清正(片岡初太郎)丈巴(坂東秀作)らであった。

 二の替りは前「鈴木主水白糸くどき」と切「俊寛物語」で、主なる配役は鈴木主水、俊寛(坂東秀調)白糸(藤川福松)女房お安(藤岡大吉)などで、この芝居は三日替り。芝居は昼食過ぎから始めて夜半までかかって、安いところは一人前十銭くらいの観覧料であったと言う。

 なお、江波村の中小屋での坂東秀調の芝居は文久元(1861)年三月にも同じ中小屋に二度目の来演があって、人気のあった沢村源之助、それに同じ広島出身といわれた若女形瀬川あやめの顔も見られた。

 広島出身の坂東秀調と瀬川あやめは、さらに打越中家でも興行しており、さらに左官町本覚寺にも文久三年の春、古屋勘兵衛の座元で、顔触れは秀調と藤岡大吉で「法界坊」などを見せているが、その他のことは省略する。

 以上天神町吉岡屋勘兵衛と坂東秀調の芝居は、明治三十年ごろ、芸備日日新聞に掲載された三浦白水記者がものした「広島興行場の沿革」と、当時の芝居番付を参考に書いたもので、前述のように広島の芝居を語るには、一応天神町居住の木材商吉岡屋勘兵衛のことは忘れてならないと思う。

 最後に同じ天神町では、大正末期であったか同町に開業されていた黒川厳博士のことも忘れられない。また永年同町に住んでいた中川出来太郎翁のことや、同翁の隣家にあった骨董(こっとう)屋の前には、中国の陵墓を飾った武人や聖人の石像が置いてあったことも思い出される。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年2月28日中国新聞セレクト掲載)

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