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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十一)中島新町(その1)酒造り唄が聞かれた街㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 中島本町は元安川と本川の水に囲まれたところで、これを「中島」と言ったもので、本町とは本通りにあったがために「中島本町」と言われた。「中島新町」は、はじめ木挽町の一部であったものが、天和年間(1681~84年)に木挽町を離れて中島新町と言われた。

 この町で忘れられないのは、旧広島市役所があったことで、町の寺には善福寺と西応寺があった。二つの寺は共に真宗本願寺派に属した。善福寺は旧市役所に並んだ寺で、この庫裡(くり)では「広島市史」(付図ともに五冊)が編さんされた。

 明治四十四年八月十七日より大正十年三月まで十年間にわたって、編さん主任の三井大作氏や児玉左一、中村寅太郎、田中宇三郎氏たちがこの大仕事に取組んだものである。もっとも「広島市史」は、その後、原稿の補修や印刷などで大正十四年十二月に完成した。ところで、善福寺は山号は仁保山といわれ、寺の本尊は阿弥陀如来で、この善福寺の縁起は次の通りである。

 応仁のころ、安南郡大河の城主三浦兵庫頭という者があったが、その弟次郎丸は幼少のころから武士をきらって仏門に入って専祐といわれ、仁保島村の本浦に禅宗の西福寺を建てた。二代目慶祐は永正七(1510)年にこの寺に入ったのちに大河浦に移って改宗して真宗となり、三代順西は毛利氏の時代に寺を広島の空鞘に移した。

 さらに四代慶順は福島氏のとき、市役所隣の地点に移って一寺を建てて善福寺と名付けた。そのころ、県庁や病院のあたりにあった土や砂を掘り集めて、寺地の地上げをしたと言う。地上げのためにこの界隈(かいわい)はT字形の堀が出来上がった。これを慶順堀、あるいはなまって「けへせへ堀」と言ったが、この堀は昭和十年ころに埋められたはずである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年3月7日中国新聞セレクト掲載)

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