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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十一)中島新町(その1)酒造り唄が聞かれた街㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 善福寺の山号仁保山は専祐が開いたときの地名に因(ちな)んだもので、西福寺の西を善に改めたものと言われる。

 この寺には玄徳院殿(浅野光晟)天心院殿(同綱晟)顕妙院殿(同綱長)の位牌(いはい)が安置され、毎年正月二日、二月十一日、四月二十三日には三氏の御法事として阿弥陀経十五巻が転読されたと言う。

 そのかみの藩主たちが鷹狩のつど、この寺に休憩したゆかりから藩主たちの菩提(ぼだい)が葬られたと言う。善福寺は原爆まで中国新聞社論説委員の藤勇哲氏が住職だったが、氏も犠牲者のひとりとなった。

 また、旧市役所の裏通りにあった西応寺は、山号を神崎山と言い、本尊の阿弥陀如来は僧行基の作と言われ、僧慶栄が開いたものである。

 慶栄は紀州雑賀鈴木氏の一族で、はじめ村井源左衛門と言った。元亀、天正のころ、大阪石山合戦のとき本願寺側に味方して功名をあげ、その後、紀伊の根来の党に参加して豊臣氏と戦い、敗れて広島に逃れて毛利氏をたずね僧となり、慶栄を名乗って慶長年間にこの寺を創建した。

 その後、宝永八(1711)年四代智見のとき、喚鐘(小鐘)を造り、延享元(1744)年五代智教のとき釣鐘を完成した。さらに寛延三(1750)年六代智恩のとき東派に転じ、翌宝暦元年正月に再び西派に復帰した。

 この町内には、三津石と白石の両酒造家があって、仕込みの時期には酒づくりの唄がゆたりゆたりと聞かれたものである。県庁前にあった中島新町の巡査派出所もかなり古いもので、その前にあった木製の火の見やぐらも忘れられない。

 派出所につづいた今井肉店、その隣はたばこ屋、また同じ並びの店には中村傘屋もあり、向側の川ップチには今坂餅(矢野)があり、その隣には薬店がつづいて吉田歯科医院、そして三宅眼科医院であった。

 中島新町で忘れてならないのは、明治九年八月に警察局がここに設けられたことで、同時に大手町二丁目にあった広島県警察本局もこの町内に移って来た。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年3月14日中国新聞セレクト掲載)

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