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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十一)中島新町(その1)酒造り唄が聞かれた街㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 「(三十七)元柳町」で広島から三次町に移住して三次高等女学校に教ベンをとっていた女性が、後に二葉あき子さんであったということを書いたが、これは筆者の思い違いであったことを謹んで訂正させてもらう。これは長年堀川町に住んでいるT氏の話によって分かったことであるが、事情というのは次の通りである。

 すなわち加藤呉服商の娘さんというのは、後にビクターの専属歌手となり、なかなかの人気を博した「由利あけみ」さんのことである。モチロン由利さんは二葉さんの後輩で、間もなく華やかな舞台を引退して、現在では家庭人として納まっているというがこの「由利あけみ」さんについては、次のような思い出がある。

 筆者が戦時中、上海などにいたころ、十一人座の昔の仲間であった塩谷春平君が、アクロバチックダンスの岡本八重子姉妹を連れて現れたことがある。後に私は十七年現地からFKに復帰したが、その時前述の塩谷君が放送局に現れて、筆者に無名歌手のテストをやってくれと連れて来た。

 そのころ演芸プロを持たされた私は当時の放送部長石島治志氏(のちに広島人に馴染(なじ)まれたFK局長)の了解を得て、その歌手のテストをやらされた。二階の休憩室にピアノがあったので、その部屋で彼女の歌を聞かされたが、テスト中彼女は脂が乗って、筆者たちの前でステージそっくりの仕草でブルースを聞かせたが、なかなかに達者な芸を見せてくれた。

 しかし戦時中のこととて、このブルース調もいかがなものかとツイに彼女の放送はお蔵になったが、それが後に東京で人気を博したビクター専属の「由利あけみ」であった。由利あけみが有名になったのは彼女が藤原歌劇団の御大から迎えられて帝国劇場で「カルメン」を演ったときで、藤原義江氏はホセをつき合って、東都の人気を博したものである。

 あのあわや呉服店のピアノの前に座っていた少女が、のちの由利あけみさんであったワケで、この点、二葉あき子さんと混同したあたりを訂正して、この追いがきを終わる。なお由利あけみさんを、檜(ひのき)舞台におくったり、ビクターの歌手にした塩谷春平君は、あの原爆の日、上流川町の自宅で倒れたと言う。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年3月28日中国新聞セレクト掲載)

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