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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十二)中島新町(その2)旧広島市役所㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島に市制が敷かれたのは明治二十二年四月一日であるが、市制施行地に指定されたのはこれより先、同年の二月二日であった。

 当時の広島県知事千田貞暁氏は、広島区長栗原幹氏に対して市制第百二十八条の「初めて議員を選挙するにつき、市参事会及職務並市条例を定むべき事項は、府県知事またはその指定する官吏においてこれを施行すべし」にある事項の取扱いを命ぜられたもので、引続き市会議員や市長の選挙が行われて四月二十一日には広島市役所の開庁式が行われたが、市役所庁舎は明治二十二年九月二十一日から旧区役所の敷地、建物、器具等一切を引きついだものであった。

 この建物は、県立病院の前にあった二階建のものであったが、入り口にあった四本の石柱も大時代のもので、中央二本の石柱には明治調のアーチ街燈が取りつけられて、正門の石柱には向って右側に「広島市役所」の看板ならぬ大門標が取りつけてあった。

 卒塔婆型の柵も大時代調であったが、それよりも珍しいのは純日本建築の車寄せで、屋根のカーブもなだらかで、屋根の中央上部には長さ五尺(約1・5メートル)以上もある精巧な鳳凰(ほうおう)の彫刻が取りつけてあった。

 向って左側の二階建は後に建てられたもので、二階の窓に取りつけられた日覆も珍しく、鳳凰の彫刻のある事務所はかなり広い土間で奥には二階建の事務室がつづいていたが、いずれにしても当時の事務室としては人の数に比べてあまりにも狭いところであった。

 市役所の兵事課(課長は天野雨石氏)には退役大尉の某氏がいて、後に舟入病院の事務長を勤めていた。某氏の氏名は失念したが、病院長は天野勲氏であった。ところでこの某氏は白島あたりから通勤していたが、常に右の手にステッキを持って左には奉公袋のようなものを握っていた。通勤の途中、道路に鉄クギなどが落ちているとステッキの先に取り付けてあったエレキ(磁石)で鉄クズを吸いあげて袋に拾い集めていた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年4月4日中国新聞セレクト掲載)

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