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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十二)中島新町(その2)旧広島市役所㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 市役所の兵事課にいた某氏がステッキ先端のエレキ(磁石)で集めた赤サビのクギは、後にかなりの量になり、これを当局へ献納した。某氏は日蓮宗の信者で寒行最中にもケサをかけエレキのステッキと袋を持って、本通りあたりで日蓮の辻説法よろしく寒行をつづけたものである。

 また、長年会計課にいた武藤白咲氏は広島では有名な歌人であったが、一方では素人劇団十一人座の主事として地方演劇運動に活躍した人であった。

 広島市役所の隣にあった広島市会議事堂もこの界隈(かいわい)では大時代な建物であった。入り口の石柱や木柵は市庁舎と同時代に出来たもので、車寄せの屋根は市役所とは違って洋風な建物であった。そして本館は立派な二階建で、屋根は破風づくりであったのも市役所の建物とは違った立派さであった。

 市役所といえば、切っても切れない関係にあった基町の水道事務所があり、明治三十四年五月には竹屋村に広島市消毒所が設けられて、三十七年九月には堺町四丁目、寺町、塚本町、水主町、細工町、平田屋町、東白島町、幟町、猿猴橋町、土手町、宇品町に、それぞれ市の掲示場が設備された。また町総代がデビュウしたのは、大正十四年七月で、市内百十四ヵ所に町総代が置かれた。

 広島市役所の建物は、広島市の発展とともに狭くなって、昭和三年四月には一切の機能を移転した。同時に、それまで比治山陸軍墓地の高台にあった「ドン」も、この日限り広島では聞かれなくなった。「ドン」を担当した阿部氏も比治山を下りて、新庁舎の屋上からは「サイレン」が新しい息を吹きつけるように響いたものである。

 ちなみに広島市役所創立以来、大正十四年一月までの歴代市長は三木達、伴資健、佐藤正、伴資健(再選)、高束康一、小田貫一、渡辺又三郎、長屋謙二、豊島陽蔵、武岡充忠(広島県理事官)、吉村平造、田部正壮、佐藤信安の十二氏であったことを付記して「中島新町」を終る。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年4月11日中国新聞セレクト掲載)

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