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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十三)水主町(その1)旧広島県庁界隈(かいわい)㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 水主町はそのかみの船頭や水主(ふなのり)が多く住んでいたがために、それがそのまま町名となっている。また寛文年間に書かれた「芸備国郡志」には加子町と書いてある。

 ところで、この町で最初に書けるのは旧市役所の前にあった県立広島病院である。創立は明治十年五月であった。もっとも当時はこれはと言った格好な建物が無かったがために、武徳殿の建てられた敷地にあった県立医学校の一部を仮病院に充てて、同年六月一日より開院した。

 当時としては小さな規模であったものが、後に明治十二年三月に旧市役所の前に新しい病舎を建てて、その年の四月一日から患者を収容したという。

 明治四十四年十月の調書によると、敷地は二町二反(約2万2千平方メートル)で、建物の総坪は千三十二坪(約3400平方メートル)という記録がある。そして入院患者の延人員は八万九千九百二人、また外来患者は十三万七千百六十七人であった。

 県病院裏には立派な庭園があって、入院患者には格好な散歩場所で与楽園(よらくえん)と言われた。この庭園は、かつて広島の名所の一つであったが、原爆のため一切が廃虚と化したのは惜しまれている。広島県議事堂もこの庭園の一角にあった。

 もともとこの庭園は、享和元(1801)年十二月十三日、旧藩主浅野重晟が執政に命じて、藩士原新助の宅地を使って文化二(1805)年に完成させた別荘であった。後に水主町御下屋敷(おしもやしき)と言われて、別の名を御船屋敷とも言ったが、この建物も明治五年には姿を消した。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年4月18日中国新聞セレクト掲載)

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