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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十三)水主町(その1)旧広島県庁界隈(かいわい)㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 県病院裏にあった庭園に最後まで姿を見せたのは「天青閣」というチンであったが、この建物については頼惟完が「天青閣並序」を残している。

 次に隣の「広島県庁」であるが、この役所が開庁式を挙げたのは明治十一年四月十五日である。それより先、明治四年七月十四日、明治天皇の詔勅によって県知事がデビュウして、広島県でも八月十五日河野敏鎌氏が広島県大参事に任命された。そして広島県庁は広島城内三の丸(後に野砲第五連隊から第五大隊となった)に移して、一切の事務を行った。

 後に県庁は明治六年三月、国泰寺に移されたが、明治九年十二月二十五日の火事のため国泰寺の庁舎は終止符を打った。そして翌二十六日には寺町の仏護寺(本願寺派広島別院)を仮庁舎にした。県庁では金銭関係の取り扱いは、中島新町百九十番邸粟根七郎右衛門の持ち家を借用して、金銭請払所としたが、実務をはじめたのは明治十年一月四日であった。

 広島県庁正面の建物は、原爆の日まで明治十一年創立当時のままのであった。入り口の車寄せも昔ながらのもので、高い白い二本の円柱塔も極めて印象的であった。

 その入り口前にあった小さなコンクリート造りの建物には、朝から晩まで映画検閲のため映写機の回転が間断なく行われたもので、夏時分には警察部の係員や制服巡査の係員が小さな映写室から汗ダクで外へ出てくる風景も思い出される(当時、冷房装置のなかった時代だけに、はたの目には映画をたのしんでいるようでも、仕事となると大変であった。これは大正末期から昭和初期にかけて各県単位にフィルムの検閲が行われたころの話である)。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年4月25日中国新聞セレクト掲載)

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