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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十四)水主町(その2)主馬流師範八幡先生㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 前回は与楽園のなりたちについて書いたが、この庭園は日清戦役とは深い結びつきがあった。ヒロシマが軍部としてクローズアップされたのはこの戦役以来のことで、それが遠因となってわがヒロシマは原爆のために潰滅(かいめつ)しただけに明治二十七、八年頃の広島のことを書くのは、後味のよくない思いである。しかしトニー谷の舌を聞いているつもりで、軽く読み流してもらいたい。

 与楽園で行われた最初の戦勝宴会は明治二十七年九月十六日であるが、二十日にはいわゆる広島の官民二千五百余名が集っての戦勝大祝宴会が行われた。これは明治天皇が広島城内にあった第五師団司令部に大本営を置かれた九月十五日より、六日目のことであった。

 また明治二十八年二月二十二日には、桐原恒三郎、森川脩蔵、伴資健氏たち四十二名の発起で、同じ与楽園で大祝宴会が開かれ、会する者千百余名といわれ、旧藩主の侯爵浅野長勲氏も参列したという。

 明治二十八年四月二十日には、同じ与楽園で講和全権大使として馬関で大任を果たした総理大臣伊藤博文、陸奥外務大臣の大歓迎会が、伴広島市長や鍋島県知事、奥山広島控訴院長らの発起で行われたが出席者は六百余名であった。

 また明治天皇が広島を後に、東京に御帰りになったのは四月二十七日であったが、五月二十日には同じ与楽園で広島市長伴資健氏外三十一名の発起で平和条約祝宴会が開かれた。

 以上は与楽園でのメモをつづった次第であるが、明治天皇が広島に行幸されたのは、明治十八年八月一日以来二度目の広島行幸であったことを書き加えて置く。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年5月9日中国新聞セレクト掲載)

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