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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十四)水主町(その2)主馬流師範八幡先生㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 明治天皇が広島においでになった大とう進転の記念日(大とう進転記念日の歌)や東京にお泊まりになった日を記念しての歌が、終戦前まで繰り返されたが、二つの記念唱歌の作曲は長年県師範に教ベンをとられた渡辺弥蔵氏であったと思う。

 閑話休題。明治元年十月三日、広島藩は兵制を改めて英国式を採用したというが、そのとき三原の洋学所に奉職中の英国士官フラックモールを広島によんで、水主町の海軍操練所で英学と練兵の技術を伝えたというが、水主町は広島での海軍のメッカであったワケである。

 水主町海軍操練所は、十一月一日付で南講武所と改められ、更に翌明治二年正月十七日付で水主町練兵所と改められたもので、水主町と海軍とのつながりはこのころからあったもので、後には江田島の海軍兵学校に入学した水主町出身者もかなりあった。後に広島市政にも活躍した井口正男氏もその一人であった。

 また明治橋から住吉橋へ抜ける通りに、延命地蔵堂があったが、この地蔵堂の近くに麦藁屋根の家が続いていた。いかにも水主町らしい風景で明治四十四、五年ごろの思い出であるが、この界隈(かいわい)に加田哲二という竹屋小学校の先生が住んでいた。

 加田先生は県師範の出身で、当時としては新進気鋭の先生として職員仲間でも評判の人であった。先生の能筆はなかなか有名であったが、ポプラの並んだ竹屋小学校の運動場で、先生が鉄棒に飛びついての妙技は、全校児童があっけにとられたものである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年5月16日中国新聞セレクト掲載)

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