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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十四)水主町(その2)主馬流師範八幡先生㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 竹屋小学校の加田哲二先生が鉄棒で繰り出した大車輪の激しさは、これを見ていた女の子が悲鳴をあげたものだった。十数回の大車輪をやった先生が最後にモンドリ打って砂場に立つと、思わず児童たちが盛大な拍手を送ったものである。加田先生は大正三、四年ごろに二十五、六歳の若さで亡くなられた。なお先生の家の近くにあった地蔵堂は、戦後その位置を変えたはずである。

 また、この町には主馬流水泳の名手八幡先生がおられた。八幡先生は、広島藩お抱えの主馬流の達人で、夏になると、京橋の近くにあった徳利小路の雁木で、子ども相手の水泳講習会が開かれた。大体に八月に入っての十日間ぐらいをこの京橋川で、また残りの十日間は水主町の住吉神社の境内で、それぞれ子どもばかりの水泳会が開かれたもので、この話は明治四十二、三年から大正初期にかけての昔話であった。鉢巻の白、赤、茶、緑色で水泳の各級が決められていた。この町にあった住吉神社は、そのかみの広島夏まつりのハイライトであった。

 なお、水主町には監獄支署があったが、明治十五年七月三日に、この支署が類焼にあって、死者が五十名も出たという記録も残っている。また住吉橋は長さ七十五間三分、幅二間三分の長橋であった。そのかみこの界隈(かいわい)には宝暦年間から「神崎渡(かんざきのわたし)」があったが、漸くに明治四十三年地元の田中権次郎、松浦長三郎、川本政蔵、吉野伊三郎、岩崎万次郎五人の発起で架橋工費の三分の一を寄付し、市より三分の二を出して同年九月十一日に落成開通したという。

 また水主町にあった中島小学校は明治三十一年三月の創立で大正十一年四月より高等科が併置されて中島尋常高等小学校と言われた。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年5月23日中国新聞セレクト掲載)

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