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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十五)吉島町(その1)萬象園㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 吉島町は吉島新開ともいわれたが、もともと葭島と書いたものが後に吉島に改められたという。明治十五年一月、それまでの吉島新開に吉島沖新開、水主町新開を合わせて吉島村となったが、大正五年七月一日から、村を改めて吉島町といわれた。

 この町内で名園といわれた「萬象園」は、水主町の与楽園、舟入町の萬春園、国泰寺町宇真菰にあった春和園、流川町の縮景園(泉邸)とともに、そのかみの広島五名園の一つであった。

 この名園は旧三原城主浅野男爵家の庭園であった。園内には幽雅な池があって、縮景園に次ぐ名園といわれたものである。この庭をテーマにした頼山陽の天保三(1832)年正月の作「萬象園記」、斎藤拙堂の「寄題萬象園」も伝えられている。

 この町で知られているのは、五十番地の広島刑務所である。そのかみ広島監獄とも言われて、浪花節や新派劇でもよく言い伝えられたものである。未決監が水主町に出来たのは明治十二年十一月であるが、十六年七月にはこの未決監が火災に遭って、死者を出したということは以前も書いたとおりで、監獄が吉島村に移されたのは明治二十一年三月であった。

 すなわち二万八千八百坪(約9万5千平方メートル)の敷地に、新築工事が行われて三年後の二十三年十月から広島監獄所と改称された。その後、明治三十六年四月から司法省の管轄となって、同時に広島監獄と名を改めたが、さらに大正十一年十月から広島刑務所と改称された。

 この一郭がよく浪花節で言い伝えられているのは、もっぱら広島監獄の名であるが、国事犯と言われた人たちの話は、古老たちの記憶にも、今もって伝えられている。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年5月30日中国新聞セレクト掲載)

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