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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十五)吉島町(その1)萬象園㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 広島監獄の国事犯と言われた人たちの話は古老たちの記憶にも今もって伝えられているので、広島の洋画家K氏がもっぱらこの監獄を背景に、深編笠を被った青衣赤衣の動静を描いたものである。この監獄の長塀を背景に柳と人物のある風景は、大正四年ごろの広島県美展で話題になったものである。

 なお新開地ともいわれた吉島町はのちに吉島羽衣町、吉島本町という二つの町も誕生して、戦時中には予備飛行場や各種工場も出来てその後の吉島町界隈(かいわい)は急速な変ボウをみせている。

 吉島町が広島の産業界に貢献した古い実例をあげてみよう。まずこの町に、明治二十六年、広島製莚株式会社が起こされたことである。広島での花ムシロ製造は、明治二十三年の頃、大手町八丁目の西本清吉、播磨屋町の福井成美、十日市町の森脇喜兵衛の三氏が、立町に工場を創立したのが最初であるが、資金の不足で工場を解散させた。

 ところが三年後、前記三名のほか中川貢、粟礼三郎、西広幸三郎、玉木一郎氏たちが参加して前述の会社をこしらえて工場を吉島町に建てた。そこで会社の肝入りで花ムシロの製織を広島監獄に委託して、もっぱら受刑者を使って作業をつづけたというが、この仕事に参加した人は三百六十余名もあった。

 ところが明治二十八年のころ、米国で日本からの花ムシロ輸出を喜ばず、現地で野草ムシロの製造を始めたために、花ムシロの輸出は大打撃を受けて、一時は会社も解散の土壇場まで追い込まれた。しかしようやくたい勢を取りもどして、会社は当時としては高額の五万円内外の製品を送り出したという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年6月6日中国新聞セレクト掲載)

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