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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十五)吉島町(その1)萬象園㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 吉島町の会社が製造した花ムシロは、広島監獄に委託して製織したために、花ムシロの出来あがりがガッチリしていた。このために、内地はモチロン海外輸出にも人気を博したという。

 当時、吉島町の名物といわれたものに、広島板紙製造合資会社の板紙があった。明治三十年十月、塚本町の井東幸七、松本九郎右衛門、中西熊七の三氏が発起人となって、上述の合資会社を設立したが、事業不振で三十四年五月に会社は解散した。

 そこで塚本町の井東茂兵衛氏は前記会社の跡を継いだが、これも経営がうまくいかなかった。明治四十年には工場一切は、岡山製紙株式会社に譲り渡されて、岡山製紙会社の広島分工場にされたが、のちにこの工場は和紙の製造にあらためられたという。

 そのころ中等学校卒業前の生徒は、卒業試験も終り、もっぱら社会見学をしたのであるが、そんな場合いつもこの工場が社会見学の対象工場にされたことを思い出す。播磨屋町の浜田治兵衛氏は、独立で吉島町に板紙製造工場を設け、広島製紙所の名で、もっぱら板紙の製造をつづけたという。

 吉島町の特有作物も忘れてはならないと思う。それは蓮根(れんこん)である。この蓮根は明治二十年の頃、同町の三崎周三郎氏が水田を利用してこの栽培を始めたもので、大正初期には作付反別五十余町歩にも達した。広島最初の蓮根栽培地は吉島町であった。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年6月13日中国新聞セレクト掲載)

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