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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十六)吉島町(その2)古老から聞いたはなし㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 きょうは吉島町生まれのK翁から聴いた、昔話をお伝えしよう。

 吉島ッ子のK翁は明治十六年生まれ、今年七十歳ではあるが、今もって同じ土地と取組んで畑仕事をたのしんでいるという元気な人で、筆者に話された当時の吉島バナシはあらまし次のとおりである。

 最初に吉島界隈(かいわい)の埋立地の話であるが、それより先明治十五年千田県知事が、国泰寺村と宇品の一部を埋め立てて南新開をこしらえた。それまでに東には吉島新開があったが、後に出来たのが「辰川開き」(沖に堤防が出来てこれを「一の字堤防」とも言われて後に一円は田になり、戦争中には未完成の飛行場となって練習機が飛んでいた)であった。

 それにならんだ埋立地は「大津屋開き」と言われ、これら刑務所以南の埋立地は明治十七年に出来た。そして本川沿いは明治開きと言われたものである。そのかみの吉島新開は十八町六反歩(約18万4千平方メートル)もあったもので、後にできた吉島沖新開は十町九反(約10万8千平方メートル)、本川沿いの水主町新開三十一町九反歩(約31万6千平方メートル)を合併して、吉島村といわれたものであるが、吉島村が吉島町になったのは大正五年七月一日からである。

 次に、現在も残っている稲荷社はかなり昔のもので(創建年月不明)この稲荷社を限りに旧新開といわれた。百年以上も前からあると思われる樋門の石が現在も三個残されているが、このあたりはそのかみの辰川の名残りをそのまま伝えているといわれる。

 稲荷社の後にある大老松は、かなりに古いもので、境内にある二基の石燈籠には「丁天明七歳、三月吉日」と刻まれており、また大時代な手水鉢には「村上久、末四月吉日、左仲一門弟中」と刻まれているが、石燈籠、手水鉢とも百六十六年前の作品で、吉島の歴史を語るには格好な記念物である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年6月20日中国新聞セレクト掲載)

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