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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十六)吉島町(その2)古老から聞いたはなし㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 吉島町のあたりは葦ばかりが生えた湿地帯で、稲生社の高台を中心にはるかな葦の中に的が立てられて御鷹狩のケイ古が行われたと言う。また稲生社の近くには稲荷社跡があるが、そこには大時代な井戸跡も残っている。なお稲生社の祭典は、初午と春の社日、そして秋まつり日で、この界隈(かいわい)の子どもたちにはたのしい祭りの日であった。

 なおこの界隈の昔話になるが、住吉橋と明治橋の中間には高台があったが、ここには浅野家の御庫(くら、倉庫)があった。この高台は七尺(約2・1メートル)くらいの高さで、明治二十三、四年ごろまで、そのままであったという。この御庫では水島小学校が開校されていた(後に水主町に四年制の誠道簡易小学校ができる前の話で、この水島小学校のことは広島市史にも掲載されていないK翁の実話である)。

 K翁の思い出話によると、この水島小学校の全生徒は六十名ばかりで、教室と言われたものは、前記浅野家の御庫が利用されたが、御庫の天井には大時代な駕籠が釣ってあったという。また教室の一角には刀剣や薙刀が陳列されて、天井にはかごのほかに弓矢の類も釣ってあったという。

 維新前には、この御庫の道具を使って演習が行われたという話をK翁から聞いたが、この話は前回も書いたとおり、芸州藩が英国の士官フラックモールを浅野家の御抱えにして水主町操練所を開いた頃の話につながりがあるもので、当時住吉神社の右側の大プールには藩の軍用船を繋(つな)いでいたという。このプールは幅十五間(約27・2メートル)ぐらいの川で、本川の流れに船をつなぐよりはと、この安全地帯を選んだものらしい。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年6月27日中国新聞セレクト掲載)

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