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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十六)吉島町(その2)古老から聞いたはなし㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 K翁の話をつづけるが、水島小学校の児童は六十名ばかりで、当時の中島小学校の生徒は百五、六十名であった。当時はその筋からの折角(せっかく)の勧誘にもかかわらず、一般に学校へは行こうとはしなかったと言う。父兄の言い分としては百姓は何も偉くなる必要はないといって、勉強そのものに対しては一向に盛りあがりがなかった。そして勉強とはいってももっぱら読み方とソロバンの類を教えてもらったという。

 当時、吉島から水島小学校に通学した児童は三人切りで、K翁もこの一人であった。K翁の記憶によると、この水島小学校のあった御庫の界隈(かいわい)は、見渡す限りの畑で、一軒の家も無かった。

 またそのかみの吉島若者連中は、正月前になると、みんなでこの界隈の家から一銭、二銭の寄付を集めたが、全部で三円七、八十銭もあったという。この金で町内の七五三なわやお供物、それに正月の松飾りを配ったというが、これは明治三十二、三年ごろの話である。

 また猪の子祭で、おさがりを切って各家に配ったが、前にも書いた社日や初午にもサカンな行事が行われた。当時水主町以南には七十戸の家があったが、そのうちの農家は十四、五軒ぐらいであった。当時の小学校の修業年限は四年で、月謝は一人十銭、兄弟二人で十五銭、三人以上で三十銭であった。

 なお、昔の水主町には番匠氏がいた。この「氏」は造船所のお抱えの船大工であった。水主町の井口正男氏が当時広島藩から土地をもらい、自分では百姓はやれないから土地を売りたいといった話も五十年前もの昔話である。当時この界隈の土地の売り値は、一反歩で五十円といわれた。―以上、明治十六年生まれのK翁からの実話をそのまま綴(つづ)った次第である。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年7月4日中国新聞セレクト掲載)

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