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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十七)西地方町(その1)西本川界隈(かいわい)(イ)西本川の御供船㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本川橋がもとの名を猫屋橋と言われたことの一切は、「(二十九)元柳町(東本川)」のところで書いたが、橋の西詰にあった「本川まんじゅう」のことも忘れられない。

 この本川まんじゅうは本川橋西詰の鉄橋堂から売り出された広島名物で広島人には馴染(なじ)まれたもので、創業は明治三十年十一月三日の天長節であった。当時の包紙のレッテルには、意匠登録三一二九一号の数字も見られた。

 この店の隣りにはクツ屋があって、その店の前には赤レンガの銀行ビルがあった(塚本町の広島商業銀行であったかも知れぬ)。この銀行の前には大きな柳の木があって、この柳が新芽を出した四、五月ごろ、静かな微風にゆらいだ風景は、いまもって広島人の記憶に残っている。

 燕もこの界隈ではスイスイとした活動をみせたもので、小ドームのあった赤レンガのビルと柳の木との色彩的コントラストは当時の広島洋画家には格好な画題にされたものである。

 そのかみ、この界隈には、岩三という船問屋があった。主人は岩国屋三兵衛と言って、天保年間であったか、大阪土佐堀の尼ケ崎多七の店を引合いに、一と六との日に船をこの本川から出したもので、当時の広島人にはよく知られた江波のおさん狐が乗って大阪に出たというのは、この岩三の番船である。三十数年前には岩三という旅館があったが、それは単なる名義だけで、昔の岩三とは関係はなかったらしい。

 この西本川から出た番船は一と六のほか、二と七の船というものがあったらしい。それは東本川の岩井医院の前に藤川という旅館があって、この旅館の主人がこの二と七の番船をやって大もうけをしたものであるという。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年7月11日中国新聞セレクト掲載)

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