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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十七)西地方町(その1) 西本川界隈(かいわい)(イ)西本川の御供船㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 御供船のともかざりは昭和十五、六年ごろ、あるアメリカ人に買いとられて海を渡り、現在も博物館に金繍、銀繍の飾り幕などが保存されているいということは「がんす横丁」(六十三)の御供船の後日物語に書いたとおりである。

 本川での御供船は前述の通り、なかなかに盛大なものであったが、筆者の記憶には前述のとおり明治四十三年五月十五日より十二日間にわたって行われた浅野長政公三百年祭の時に、広島最後の御供船が二隻も出たことを思い出すが、京橋川、元安川そしてこの本川に大きな噴水が(朝顔をテーマにしたものであった)こしらえられたことも思い出される。

 ここからは追いがきになるが、「(四十六)吉島町(その2)」のうち「明治開き」とあるのは旧吉島村内の字で本川の下流右岸廣島監獄署の南方を言う。また水主町のうち住吉神社東岸の入江に沿った堤防は(本川左岸)「絹繰場」と言われたものだった。

 なお、「(四十二)中島新町(その2)」で退役大尉某氏のことを書いたが、そのことについて豊田郡本郷町の檜垣兵市氏から次のような便りをいただいた。

 「某氏は牛田町在住の福井梅太郎氏であります。山羊(やぎ)のように真白いあごひげをたくわえた人で、本文にあったようにツエと袋をさげ歩いた方ですが同氏は仏教済世軍を創めて、明治堂菓子店前の小路、斜屋町に苦学を志した子女を集めて女子教育に専心せられていました。これらの子女は家政派遣婦として、今日で言うアルバイトをやつて、夜間は勉学にいそしんだものです。また白だすきをかけて募金運動に当たった慈善家でありました」

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年7月25日中国新聞セレクト掲載)

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