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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十八)西地方町(その2)西本川界隈(かいわい)(ロ)徳川家康の名も出てくる浄国寺㊤

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 前回は西本川の御供船にばかり気をとられて、肝ジンの西地方町の町名を忘れてしまったが、もともとこの界隈は広瀬村、後には畳屋町と言われた。

 また一般には近くの海を表す場合「近海」というが、これに対して、陸の場合には「地方(ぢがた)」という表現を使ったものである。そして「西」の字を使ったのは、台屋町の旧名「地方町」に対してつけたものといわれる。

 またこの町を「畳屋町」と言ったのは、そのかみの毛利氏が吉田から広島に城を移した当時、畳職人がこの界隈に移住して来たために、たたみや町という町が出来たと伝えられたものである。

 なお西土手町の一部は明治十五年一月から、西地方町に合併された。ついでながら、寿座に関する限り、辻ビラや広告一切には「畳屋町寿座」という五字が見られたのも懐かしい思い出となっている。

 浄土宗浄国寺は山号を無衰山、院号を古今院と言い、本尊は阿弥陀如来である。天正年間、僧文慶は高田郡吉田に寺を建てて浄国寺と言い自ら住職となったが(芸藩通志によると、浄国寺は元養国寺と号し、下小原にありしを吉田村に移せりとある)、ゆくりなくも福島正則がこの地方を巡歴して吉田を訪ね、この浄国寺に三泊した時、正則と文慶とは大いに話が合い、正則は文慶に広島移住をすすめたという。

 そこで慶長年間、文慶は広島に正則を訪ねて寺地をもらい一寺を建立したが、山号、院号寺名ともに吉田時代のものを踏襲した。そして浄国寺をこの広島に建立する前には、同じ土地は毛利輝元の別邸があったところで、福島氏のときも下屋敷になっていたところである。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年8月1日中国新聞セレクト掲載)

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