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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十八)西地方町(その2)西本川界隈(かいわい)(ロ)徳川家康の名も出てくる浄国寺㊥

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 浄国寺を開基した僧文慶は幼少のころ、駿河国知源院に住んで智短上人の弟子となった。この智短上人は徳川竹千代(徳川家康の幼名)の習字の師範で、文慶は竹千代の習字友達で、言うならば天下を掌握した家康とは竹馬の友達であった。

 ここで「文慶略伝」のうちから抜き書きをすると、「(前略)其時の住持智短上人導師となれり、智短上人は東照宮(徳川家康)御幼少の時、御手習の御師範としてその弟子文慶は東照宮手習の御朋友なり、智短遷化ののち文慶芸州広島城下(広島は吉田の誤か)浄国寺に住持す。然るに後年東照宮へ召出され、駿州狐ケ崎において一寺を建立し、萃陽院と号す。智短上人を開基として文慶上人住持す」。

 また「開運録」によると、「近隣に知源院という寺あり。住持は智短上人とて達徳の僧ましましき、常はこの寺にて手習などなされ、彼の弟子に文慶という小法師、竹千代(徳川家康の幼名)君に他事なく相馴奉りしかば、毎日の遊びにもこの僧のみぞ伴ひたまひける。竹千代君十八歳のおんとき永禄二己未年尼公は死去し給ひぬ。智短上人も程なく遷化して文慶は関東に下り、年臘積て後、芸州広島浄国寺の住持たり。されば知源院は自ら住持なく空しく在俗の栖となりけり。然るに御治世の後秀忠公へ天下をゆずり、御身駿河に御安居の時、つらつら懐旧の御心ましまして、彼の源応尼公御菩提の為とて、再び知源院の旧墓を求め、仏閣僧舎新に御造立あり、即尼公の戒名萃陽院玉柱慈仙大姉と申しければ、やがて萃陽院と号を御改め御供料三十石御寄付有之、文慶を広島より召寄られ、持主と定め給う。され共、文慶は程なく病に侵され、養生とて摂州有馬へおもむき、終に陽山にて死にけり(下文略す)」。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年8月8日中国新聞セレクト掲載)

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