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竹原出身の画家・手島守之輔の肖像画 親友の荻太郎作と判明

荻太郎作 「深い交友」示す肖像

 広島県竹原市出身で31歳で被爆死した画家手島守之輔の油彩の肖像画を、大学時代の親友で戦後の洋画壇の重鎮になった荻太郎(1915~2009年)が描いていた。同市の手島の実家で確認された。(道面雅量)

 存在は知られていたが、作者不詳のまま手島の「自画像」と扱われてきた絵。研究者は「二人の交友の深さを物語る」と注目する。

 荻は愛知県に生まれ、手島とは東京美術学校(現東京芸術大)油画科でともに南薫造(呉市出身)に学んだ同窓。当時の新制作派協会展などで腕を競い合った。

 1945年8月、手島は召集されて広島で被爆死。荻は親友の死を悼み、「レクイエム」「歴史」など戦後の連作に表現した。88年に小山敬三美術賞、2002年に中村彝(つね)賞を受けるなど活躍した。

 南と教え子たちの画業を研究している呉市立美術館の角田知扶(ちほ)学芸員が今月、竹原市東野町にある手島の実家で、この絵を調査。若い手島の表情を捉えた絵の右下に、少しかすれてはいるが「T・Ogui」という荻の特徴的なサインを認めた。

 77年に東京の出版社が出した画集や、96年に竹原で展示された際には「自画像」とされたが、「荻さんが描いたとみて間違いない」と角田学芸員。「学生時代、互いにモデルになって完成作を交換したのだろうか。描き味からも親しさが伝わる」と言う。

 手島の妹の長男で、絵を管理する手島潤さん(61)は「荻さんとの縁は母からも聞かされていなかった。今回、話を聞き、荻さんの中で伯父が生き続けていたようで感慨深い」と話している。

手島守之輔
 1914年竹原市生まれ。広島二中(現観音高)、東京美術学校で学んだ。疎開した竹原の忠海中(現忠海高)で図画講師をしていた45年8月1日、臨時召集で入営。広島で被爆し同16日に亡くなった。作品は広島県立美術館や、戦没画学生慰霊美術館「無言館」(長野県上田市)などに収められている。

(2013年8月28日朝刊掲載)

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