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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十八)西地方町(その2)西本川界隈(かいわい)(ロ)徳川家康の名も出てくる浄国寺㊦

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 「文慶略伝」と「開運録」によれば、浄国寺を開基した文慶が高田郡吉田に住んでいたことは記録にないが、「芸藩通志」「知新集」「高田郡誌」などには、文慶のことが、天正年間吉田に一寺を開基し間もなく芸州広島に下るとあるが、これは吉田に下ったことが誤り伝えられたものらしい。

 また、そのかみの浄国寺には徳川家康の遺品が所蔵されたというが、これは幼な友だち文慶に賜った記念品であったらしい。

 承応三(1654)年、七世長誉は初めて洪鐘(小叩鐘)を新鋳したが、後にこの鐘の響きが陰うつなために嫌われて、元禄十五(1702)年の春、九世伝誉が洪鐘を改鋳されたと言う。なお浄国寺の苗本堂は嘉永二(1849)年に崩壊したままで再建されず、終りにはただ庫裏だけが再建されて西南側の一室が原爆前まで本堂に当てられていた。

 なおこの寺の境内にあった大銀杏は、西地方界隈の目印となっていたもので、原爆を浴びたこの大銀杏は、昭和二十一、二年まで荒涼たる焼土にポツンと立ったままで遠く広島駅や横川駅からも一目で見られた大銀杏であった。

 長年の年輪があるこの大銀杏の木は、秋になると黄色の葉が風のために飛び散ったので風流を解しない一部界隈人から嫌われて、この大銀杏を切ってしまえという声も出たというが、原爆で倒れた当時の先代住職がこの大銀杏を最後まで守ったという挿話もある。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年8月15日中国新聞セレクト掲載)

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