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連載・特集

「がんす横丁」シリーズ 續がんす横丁 (四十九)西地方町(その3)宮島杓子の創案者誓真①

文・薄田太郎 え・福井芳郎

 本題に入る前に、横綱常陸山の広島での挿話をお伝えしよう。そのかみ串本康三氏が代議士になった時の話である。同氏が広島市で当選したのは明治三十一年八月、三十六年三月、四十一年五月、四十五年五月と都合四回で、その何回目の選挙であったか、前記横綱常陸山が、串本氏を応援してワラジがけで「がんす横丁」を戸別訪問したということも忘れられない。

 ところで本題に入るが、この浄国寺には宮島杓子を創案した僧誓真の墓がある。この墓はそのかみ三段の墓であったが、原爆後、墓地整理の都合で下の二段が姿を消して、僧侶特有の砲弾型の石塔が残されている。

 石塔には「実誉至誠誓真大徳」寛政十二(1800)年八月六日没と刻まれている。この墓の主人公誓真は、宮島杓子の創始者としてよく知られている人で、この墓が浄国寺にあるワケや誓真の人となりなぞについてそのあらましをお伝えしよう。

 僧誓真は村上氏と言われ、代々広島の大工町に住んで米屋を営業したという。彼は二十五歳のとき感ずるところがあって厳島に渡って光明院の僧、了単上人に投じて剃度したという。

 誓真は勤行刻苦をつづけたが、生まれつき彫刻がうまく、厳島の人のために杓子を工夫して製造した。この宮島細工は誓真の発案であるが、この外に島内のあちこちに井戸を掘って島の人たちから救世主と親しまれたが、前述のように寛政十二年八月六日、五十九歳で入寂した。

 この連載は、1953(昭和28)年7月から9月にかけて中国新聞夕刊に掲載した「続がんす横丁」(第1部)の復刻です。旧漢字は新漢字とし、読みにくい箇所にルビを付けました。表現は原則として当時のままとしています。

(2021年8月22日中国新聞セレクト掲載)

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